2016.6.22
災害で生き残った人々は死者へどのように思いを寄せ、どう災害を伝えてきたか?(川島秀一教授)(vol.24 その1)
なぜ人間は災害を忘れしまうのか? また、忘れないためには何が必要か?
「災害は忘れた頃にやってくる」。災害教訓を次世代へつないでいくことは、将来のために非常に重要で、IRIDeSの使命の一つでもあります。
しかし人類にとり、災害に限らず何かの記憶を永続させることは、実は極めて困難です。災害の経験者が、どれほど忘れまいと心がけても、時間がたてば記憶は薄れていきます。後世になれば、直接体験に基づくリアルな記憶は他者からの伝聞情報に変わり、更に風化が進みます。
IRIDeSの民俗学者・川島秀一教授(災害文化研究分野)は、災害記憶の継承について、災害遺構との関連から研究を行っています。川島教授は、災害遺構を、災害記念碑・供養碑・祭・儀礼など幅広く含めて捉えた上で、日本各地で災害遺構がどのように活用されているか、フィールドワークに基づいて考察しました。
事例1:長崎市の「念仏講まんじゅう」
長崎市大田尾町山川河内では、万延元(1860)年に発生した土砂災害による死者を供養するため、毎月14日に地域で「念仏講まんじゅう」を配る風習があります。
14日は、この災害で亡くなった全員が発見された日ですが、まんじゅうを配るにあたり、いちいち由来は説明されません。当初の供養の意味が薄れ、慣習化しているともいえますが、食べ物は、特に子どもを惹きつけます。
毎月、まんじゅうをもらい続けているうちに、どこかの時点で、この風習の本来の意味と、過去に災害があった事実を認識するようになり、それが結果として防災につながっているのではと、川島教授は考えています。
昭和57(1982)年の長崎集中豪雨の際、隣の沢では死者が出ましたが、この集落ではなかったことが注目を集めました。
<念仏講まんじゅうの様子>(2015年8月 川島教授撮影)
事例2:大阪市大正橋の「地蔵盆」
大阪市の大正橋では、安政元(1854)年の地震津波の死者を供養するため、毎年8月23・24日に「地蔵盆」を行っています。
ここには、過去の津波について詳細に記した「地蔵さん」と呼ばれる碑があり、「毎年、碑に墨を入れ、読みやすくして欲しい」と書かれています。文字をつぶさずに上手に墨を入れるには、原文と照合する必要があり、墨入れをする人は、当時、何が起きたかまで理解することになります。
また、地蔵盆の供物は川で亡くなった死者に捧げられ、かつ、町内でも配られます。現地では「地蔵盆で供養しているおかげで、死者にたたられない」という意識があり、また、供物を受け取った人が、過去の津波について何気なく学ぶ機会にもなっています。
そもそもは津波による死者の慰霊行事であった筈のものが、子ども中心の祭りである地蔵盆と一緒にされているのが興味深いと、川島教授は話します。前述の長崎市の例と同じく、たとえ意図的でないにしても、実質、子ども時代から始まる防災教育になっているわけです。
<大正橋の地蔵盆>(2015年8月川島教授撮影)
【お問い合わせ】IRIDeS 広報室:
電話 022-752-2049、Eメール irides-pr*grp.tohoku.ac.jp (*を@で置き換えてください)